小林米作氏の御次男で、
ヴァイオリニスト小林武史さんの弟さんである
小林健次さんが6月に亡くなられました。
1980年の後半だったと思いますが、私は
小林米作さんに 言いつかって、
上野の文化会館で行われた健次さんのコンサートにお花束をもって
聴きに行ったことがあります。
ステージの健次さんは長身でお父さんの米作氏ととってもよく似ておられた、
ということが印象に残っています。
健次さんはヴァイオリニストニューヨークの音楽院で学ばれ、現代の音楽にとても精通しておられた、と聞いています。
ヨネ・プロダクションの過去の作品に現代音楽の様々な作曲家が映像に曲を提供しているのですが、それもおそらく、健次さんの関係もあったのでは、と思います。
(その他にも、NHKの音楽番組に関係していたところからヨネ・プロダクションに転職した、船越美枝子氏の影響もあったと思います)
この様な交友関係がどのようなものだったかは、今から詳細がわからないのですが、
どの作曲家の人たちもヨネ・プロダクションの小林米作氏の映像に
何か感じるところがあって、映像に音楽を付けてくれていたのではないでしょうか。
健次さんも
家族としても音楽家としても父である米作氏を理解していたと思います。
小林健次氏のご冥福をお祈りいたします。
以下、科学映像館の寄稿文を引用させていただきます。
http://www.kagakueizo.org/products/23/
父、小林米作を語る
< プロフィール >
小林健次(こばやし・けんじ)
- 昭和25年
- 渡辺暁雄指揮東京フィルハーモニー
定期公演でデビュー - 昭和36年
- ニューヨーク・タウンホールで
デビューリサイタル、NYタイムズ
紙上で絶賛され、その後も世界で活躍 - 昭和57年
- 文化庁主催芸術祭賞、中島健蔵
音楽賞、朝日現代音楽賞他を受賞。
現在も多方面で活躍。桐朋学園大学教授
桐朋学園大学教授
小林健次
平成19年7月15日、科学映画カメラマン小林米作の100歳の誕生日を祝って、彼が住み慣れた茅ヶ崎でささやかな祝賀会が開かれた。茅ヶ崎の功労者ということで市長さんのお祝いの言葉があり、彼の代表作の1つである「生命誕生」の上映や、息子夫婦や孫によるミニコンサートと、本人も子供の頃覚えた歌を披露してお祝いに来てくださった方達を喜ばせた。
実は彼自身も若い頃、バイオリニストになろうと思っていた時代があり、また映画制作者に必要な絵コンテのための絵の技術も、子供の頃に実家の酒造問屋に出入りしていた画家から手ほどきを受けていた。周りから鬼のカメラマンと言われたり、過酷なバイオリンの練習を息子達に強いたりしていても、芸術を楽しむ遊び心をどこかに持っていて、それが彼の科学映画の魅力の1つになっていたように思う。
1本の作品を撮影するのに、予定より遥かに多い4,000フィート以上のフィルムを使ったり、貴重な細胞分裂の映像が撮れても構図が美しくないと何度も撮り直しをするなど、それを受け入れてくれた科学映画の全盛期を盛り上げた東京シネマの社長、岡田桑三氏の存在は大きい。
話はさかのぼるが、第2次大戦中に父はニュースカメラマンとして、東南アジアのジャワ島に派遣されていた。そこには、日本軍の急襲に遭い逃げ切れなかったたくさんのヨーロッパ人がいた。その中に、世界的バイオリニストでベルリンフィルハーモニーの名コンサートマスターでありながら、ナチスドイツの追跡を逃れアメリカに向かう途中で日本軍に抑留された、シモン・ゴールドベルグ氏がいた。
自らもバイオリンを弾いた父は、ゴールドベルグ氏を訪ね、恐る恐る、氏の演奏する姿を日本にいる子供達に送りたいので写真を撮らせてほしいと申し出た。ゴールドベルグ氏もそれを快諾され、百数十枚の写真を撮らせてもらった。
明日の生命も保障されない境遇で、敵側とも言える日本人の子供のバイオリンレッスンを抑留所でしてくだったゴールドベルグ氏には私は今でも感謝している。私は父のゴールドベルグ氏への思いを、戦時中の状況下でこのような方法でしか表せなかったような気がする。
後日、NHKのゴールドベルグ氏の特別番組で、氏は写真を通じてでも、ある程度のレッスン(特に右手)はできると思ったと話しておられた。また父は、戦争中も子供達が世界のどこでも生活できるようなバイオリニストにすることしか、考えていなかったと話していた。
ゴールドベルグ氏はその後、日本軍部の特別許可をもらって抑留者のためのコンサートを企画、自分の記憶の中にあるオーケストラパートを雑誌の余白で作り、また5,000人の抑留者の中からオーケストラメンバーを選び、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。その時の美しく心に深くしみる演奏に涙を流しながら聴き入っている人達のスケッチが残っており、ゴールドベルグ氏は、飢えや明日をも分からない人生に苦しんでいる人達を唯一精神的に支えられるのは音楽なのだということを悟ったと話している。
戦後、はなばなしく国際的な演奏活動に復帰された先生を訪ねて、留学中の私は昭和29年、コロラド州アスペン音楽祭に参加した。先生も百数十枚の写真を撮ったカメラマンのことをよく覚えていてくださり、写真でレッスンをした弟子の私に会えたことにびっくりされ、大いに喜んでくださった。その後、たびたび日本にも演奏会と公開講座に来られ、また日本人ピアニストと結婚、かつて敵国だった日本を永住の地と決め、1993年富山で亡くなられた。
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